「砂の祭典」にかける想い

「"砂"とともに歩んだ人生」(前編)vol.05

管理人

吹上浜砂の祭典30回を記念して、これまでの砂の祭典を支えてこられた方々の想いをインタビューしました。今回は、vol.05をご紹介します!

南さつま市社会福祉協議会
ボランティア連絡会 会長 鮫島小夜子

「砂の祭典」は南さつま市のたくさんのボランティアの方の協力によって運営されています。ご自身が障害者でありながら、「砂の祭典」でのボランティア活動に長年活躍してきた鮫島さんにお話を伺いました。

インタビュー・文=砂の祭典広報部会 クボ

南さつま市社会福祉協議会ボランティア連絡会 会長 鮫島小夜子

学研が第1回の「砂の祭典」を取材

ーー鮫島さんも第1回の「砂の祭典」から関わっていると聞いたのですが、どういうきっかけだったんですか?

私は当時、「学研のおばさん」をしていたんです。今はなくなっちゃった雑誌だけど、地域の小学校に学研の「学習」と「科学」という雑誌を届ける仕事ね。それで、枕崎にあった学研の取り扱い店から話があって、学研の雑誌で特集するために「砂の祭典」を取材したいという話がきたのね。

ーーまだ始まってもいないのに、第1回の「砂の祭典」をいきなり学研が取材したいって言ってきたわけですか!?

本社の方がいろいろネタを調べてたんでしょうね。それで、当時、旦那が市議会議員をしていたから学研にかけあったんだと思いますが、ただ「砂の祭典」を取材するだけでなくて、祭典へ招いた砂像彫刻家のゲーリー・カークさん(※)に子どもたちの砂像づくりを指導していただくという企画をやることになりました。

その時、うちの一番下の子が小学一年生だったから、万世小学校の一年生を集めて、うちの子も含めてカークさんに砂像づくりを指導してもらいました。「砂の祭典」は新川海岸で夏に始まったから、下の子の1年生の夏休みの思い出だよね。

※1 ゲーリー・カーク 砂像彫刻の世界的な第一人者。

ーー万世小学校の1年生が砂像をつくったということですけど、学校として参加したわけではなくて...。

そう。私が学研をとってくれていた子たちに声を掛けたら、たくさん子どもたちが集まってくれてね。夏休みの暑い中、海パン姿で砂像づくりの指導を受けて。1年生の夏休みに取材を受けて、それが雑誌に掲載されたのが2年生の時。「学習」は学年ごとに刊行されていて、取材は1年生だったけど掲載されたのは2年生の「学習」。8ページのカラーページで特集されました。

加世田でもまだあんまり「砂の祭典」が認知されてない時に、全国の子どもたちの方が先に「砂の祭典」を知ったんだよね。その掲載された号が残っていれば話が早いんだけど、それが残念ながら残っていないんです。

ーーそれは残念! ゲーリー・カークさんの指導はどんな感じだったんですか?

カークさんは子ども好きでね! 本格的な砂像をつくりに招聘されてきたわけだからそっちの方が大事なのに、ちょくちょく子どもたちの砂像づくりの方を見に来てくれて、本当によくしてもらいました。すごくいい人だな、っていうのが第一印象。カークさんなしでは「砂の祭典」は始まってないと思います。

ゲーリー・カークさんに指導を受ける鮫島さんの息子さん
*ゲーリー・カークさんに指導を受ける鮫島さんの息子さん。

ーーまずは子どもさんの砂像づくりから「砂の祭典」との関わりが始まったんですね。

そのうち砂像づくりのファミリー大会も開催されるようになって、うちは子どもが4人いるんだけど、その4人の子どもはもちろん、甥っ子姪っ子も出場してみんなで砂像をつくっていました。

ーー鮫島さん自身は、第1回の「砂の祭典」ではどんなことをやっていたんですか?

会期中のゴミ拾いとか、ちょっとしたボランティア活動をしていました。今みたいに会場にボランティアを配置するとかいうこともなかったですからね。自主的にそういうことを。

ーー旦那さんも第1回の「砂の祭典」から関わっていたんですよね。

旦那は、さっきも言ったとおり加世田市の市議会議員をしていたけど、本業は電話局。加世田電報電話局に勤めていました。その頃は携帯電話はおろかポケベルもない時代だから、こういうイベントを野外でするとなると現地のスタッフと連絡がつかなくなるわけです。だからイベント期間中に特別に会場に公衆電話を設置して、会場と役場とが連絡できるようにしないといけない。

それで砂の祭典実行委員会から依頼があって、旦那はその公衆電話を設置する仕事をしていたのね。市議会としても「砂の祭典」に協力していたわけだから、ちょうど電話局にいるということで旦那が中心になってやっていました。会場の入り口付近に2台か3台公衆電話を設置したと思います。役場から電話がかかってきたら、「市役所の××さん、電話が入っています」なんて会場に呼び出しを掛けるんだけど、そういう呼び出しを私もやりました。

ーー鮫島さんは、当時からいろんな役割を果たされていたんですね。

今みたいにボランティアの体制も整っていない時代だから、会場でなんやかんやしましたね。特に役割が決まってるわけでもなくて、手が足りないところを手伝うという感じで。平成元年に大きな事故にあってるんだけど、その後にはボランティアのグループでそういう活動に取り組むようになりました。今は社会福祉協議会の中のボランティア連絡会の会長をしているので、砂の祭典実行委員会からの依頼を受けて、会長としてボランティアを派遣するということをしています。

人生を変えた大事故

ーーボランティアの元締めをしているということですね。ボランティアの話の前に、ちょっとその「大きな事故」の話をしてもらえますか?

一番下の子が3年生だった年の5月30日のことでした。だから3回目の「砂の祭典」の年。その時も学研の仕事で中学生用のドリルを配っている途中で、加世田の駅前の通りを50ccの原付バイクで走っていました。通りの裏にはちょうど電話局です。そしたら右折してきた軽トラックにはねられて、右側に転倒。ちょうど電話局には旦那がいたから、救急車より先に旦那が走ってきたのが速かった。事故の瞬間に、「頭は打たなかった!」ということだけ強く思ったことを覚えてます。

ーー具体的にはどういった怪我だったんでしょう。

右足膝関節の粉砕骨折。つまり関節が粉々になったわけね。有馬病院に7ヶ月入院しました。人工骨を入れるという予定で手術に入ったけれど、お医者さんがいざ開けてみると、これは人工骨を使わないでいけそうだと方針転換して、骨盤をノミで削って、削った骨盤の骨で関節を作って下さいました。お陰で、今では膝に金属は一つもはいってないし、痛みもないです。本当に素晴らしい判断をしてくださったと思います。

でも、手術の前から障害は残りますと言われていたとおり、それで足が曲がらなくなってしまって、障害者になりました。今では、南さつま市の身体障害者福祉連合会の会長もしています。障害者になったのはもちろんいいことではないけど、障害者の人たちとも知り合いになれてたくさんの仲間ができた。これは本当に財産です。

ーーそれは人生が変わった事故だったんですね。もちろんこの年の夏にあった「砂の祭典」には...。

行ってないです。入院中ですから。これまでの「砂の祭典」で行ってないのはこの1回だけです。

忘れられないバスガイド

ーーこれまでの30年間、ただ1回を除いて全て「砂の祭典」に参加してきたというだけで凄いです。その中でも一番思い出深い「砂の祭典」はありますか?

その話をするには、「砂の祭典」でやっていた「バスツアー」の話から入らないと。「砂の祭典」の会場が新川海岸から加世田ドームに移ってきて、実施時期も夏休みからゴールデンウィークに変わり、実施推進本部長も変わって、新しい取り組みとしてバスツアーをやることになったんです。それで、どこから聞いたのかわからないけど、私が昔バスガイドをしていたということを聞きつけて、そのバスツアーでバスガイドをしてくれないかとお願いしてきました。

ーー「砂の祭典」でバスツアーっていうのがよくわからないんですけど?

「砂の祭典」の会場が発着所になって、南さつまの観光地を巡るバスツアーをしたわけです。午前10時に出発して午後3時に帰ってくるようなツアーだったかな。笠沙の谷山で留まって、そこでツワ採りをしたりね。あの谷山の段々畑のところで(※)。それで谷山のおじさんおばさんたちが煮しめを振る舞ってくれたりとか、野間池の岬の上まで歩いて登っていったり、ただバスで見て回るだけじゃなくて体験も盛り込んだツアーでした。大浦・笠沙が2日、坊津・枕崎が2日という内容で、祭典期間中の4日間バスツアーがあったんです。

※谷山の段々畑 「南さつま海道八景」の一つでもある谷山集落の段々畑にはツワがたくさん植えられています。

ーー面白そうなバスツアーですねー! そのバスガイドを一人で務められたということですか?

最初はぜんぶ一人で案内。もういいおばちゃんだったのにね(笑)2年後から、今「加世田いにしへガイド」(※)でも活躍してる福元拓朗さんと、おじさんおばさんのコンビで面白おかしくバスガイドしましたよ。昔取った杵柄というやつで、バスガイドしてる時はすごく生き生きしてやってたと思う。

※加世田いにしへガイド 加世田の麓・竹田神社周辺を中心にまち歩きを案内する団体。

関連サイト:加世田いにしへガイド / 南さつま市|鹿児島県観光サイト/本物。の旅かごしま
※クリックすると外部のページに移動します。

ーーで、思い出深い「砂の祭典」の時はどんなことを...?

あれはバスツアーをやった最後の年のことです。その年の3月か4月には、うちの旦那が肝臓癌で、もういつ容態が急変してもおかしくないという状態になってました。5月にある「砂の祭典」まで持つかもわからない。3月から4月に本格的に「砂の祭典」の人の配置が決まってくるから、旦那に「今年はバスガイドを断らんなねー(断らないとね)」と話をしていました。

そしたら旦那が、「お前がバスに乗らんと、乗っとはおらんたっどが!(乗る人はいないんだろう!)」って言うんですよ。それで、そういう状況の中でも「砂の祭典」でバスガイドをつとめあげた。もう、それが忘れられない思い出。

ーー旦那さんは「砂の祭典」までは生きていらっしゃったんですね。

「砂の祭典」の頃はもう腹水が溜まっていてね。点滴を打ちながら、お腹の方では腹水を抜くみたいな状態でした。でも私がバスガイドをしている間に、子どもに付き添われて旦那も最後の「砂の祭典」の会場に来ました。そして、その年の7月に亡くなりました。

最愛の旦那さんと...
*最愛の旦那さんと...。

なんで続けてるのかって考えたこともない

ーー壮絶な思い出の「砂の祭典」ですね。その後は「砂の祭典」とはどのような関わりになるのでしょうか。

バスツアーが終了して、今度はボランティア仲間と物産ブースの運営をしてみようということになりました。その時はまだ出店してくれる物産のお店が少なくて、「やってくれないか」という話があったんだと思います。「ふるさとふくろ便」という店名にして、「砂の祭典」の会場でらっきょうとか、ツワとか、それから灰汁巻(あくまき)を作って売りました。そのツワも、バスツアーをやったご縁で笠沙の谷山から採らせてもらってね。採ってきたものだから元値はタダだよね。

ーー売れたんですか?

すっごい売れました! ボランティアのメンバーでやってるから日当も出さなくていいから、経費を払って残った分のお金でみんなで食事会をしてました。楽しかったですね。

ーーツワとか灰汁巻とか買われるのは、やっぱり地元の方なんですか?

いや、逆に、意外と遠くから来て下さった方が買うんですよね、こういうものを。地元の方はあまり買わない。毎年鹿児島市かららっきょうを買いに来て下さるお客さんがいたりして、本当に有り難いと思います。いろんなイベントがたくさんあるゴールデンウィークの時に、たくさんの人がこの「砂の祭典」に来て下さるっていうのは本当に凄いことです。こう言っちゃなんですけど、よくチケット代千円も払って来てくれるなって思いますもん。私だったら、隣町でこういうイベントをやっていても行かないかも知れない。

ーーいやいや、それは、第1回の「砂の祭典」からずっといろんな形で「砂の祭典」の開催に協力してきた鮫島さんにこそ言いたいことですよ。どうして「砂の祭典」にそんなにも協力してきたのかな、何が原動力なのかな、というのをぜひ聞きたいです。時には、「もう砂の祭典に協力するのも飽きてきたな、負担だな」とか思うこともあったんじゃないですか?

いや、そんなことを思ったことは一回もないですね。どうしてかって言われても困るけど、やっぱり「砂の祭典」だけじゃなくて、ボランティアのグループとか障害者の仲間がいる、その人たちと一緒に関われる、っていうことが大きいと思う。一人ではできないですからね。今の私の仲間は、みんな見返りを求めないで楽しんでこういうことに参加する人たち。私も同じ考え。

そして、うちの旦那が元気な頃、何も言わずにボランティア活動を自由にさせてくれた。昔はボランティアっていうのもあんまり認知されてなかったのに。その旦那に、天国から「はしとせい!(しっかりしろよ!)」と言われないように活動を続けていきたい。その想いかな。やっぱり、私より旦那の方が「砂の祭典」に深く関わってたから。旦那が亡くなった後でも、別に変わらずにやっているだけ。なんで続けてるのかって考えたこともない。

ーー本当に立派すぎて頭が下がります。

別に特別なことではないと思いますよ。だって「砂の祭典」に関わる他のボランティアさんも一緒。「砂の祭典」で1日ボランティアしても、もらえるのは500円の食券一枚。昼食代にもならないくらい。それでも、「砂の祭典」のボランティアをお願いします、ってボランティア連絡会の会長としていろんな団体にお願いすると、イヤな顔一つしないで人を出してくれる。それどころか「今年は依頼がまだないようですが」なんてあっちの方から言ってくることもある。

ーーいや、それもやっぱり立派だからだと思いますけどね...。砂の祭典は「ボランティアの協力なしでは成り立たない」ってよく言われますもん。本当に縁の下の力持ちでイベントを支えて下さってると思います。

取材:2017年3月23日

後編に続きます。次回は、「"砂"とともに歩んだ人生」(後編)vol.06です!